ボクネン作品を語る。

 ボクネン作品は、ときどき新聞や雑誌で批評されることがあります。今年2月12日にも沖縄タイムス紙上の「展評」でジャーナリストの方によって、その批評が掲載されました。ここに紹介します。

 

祭祀空間に再生の物語

「ボクネンを見る〜万象連鎖シリーズⅢ〜」

                                                                                                                     諸見里 道浩(ジャーナリスト)

 版画家の名嘉睦稔は描くとはいわず、「取る」と表現する。

 作品は「空間全体に満ちているものから取った絵」なのだという。森羅万象の広がりと宇宙誕生につながる150億年余の時間からすれば、「生きている間に取った絵」はなんと微細なものかという意味合いだ。

 だからだろうか、「画想を練ることなく」湧きでるイマジネーションを、一気呵成に版木に彫り込む。「頭の中で動き変化する絵」を固定しようと速度をあげる。

    棟方志功と同じく裏手彩色という和紙に裏側から色付けする技法で、黄、青、赤、緑の色をのせる。原色たちは個性を競いつつも補いあう。ベースの黒が引き締め、鮮やかでいて調和のとれたボクネン版画となる。

 「万象連鎖シリーズ」は1997年に始まった。1枚を描き、その絵からの連想を受けて描き足していく。繋絵(つなぎえ)と名付けている。全226点、今回のシリーズⅢは2005年から12年までの63点。その後はほとんど描いてないと聞いている。

 連鎖は、名嘉の故郷、伊是名島の大きな福木を描くことから始まった。

 「一本道の福木」と題された絵は、黒々の福木が中央に大きく立ち、木陰で憩う農夫らしき姿がある。

 やがて花々が咲き誇る野原に豊満な女神が蝶と舞う場面へと移っていく。いつしか春の歓喜から神女や巨大な牛や馬、バッタたちが織りなす「祈りの世界」へ変化する。

 46作「喰われる自由」(1998年)は、白と黒の大きな牛ととぐろを巻くハブとともに、手前に死人と食いつく犬。死人の傍に女の子の人形が描かれている。自然の摂理と人の思いが交差する。

 伊是名島の体験が名嘉のイメージの源である。生とともに死も「隣りにあった」少年期の島の生活。島の古老たちは死出の旅を「唐旅(とうたび)」と沖縄全般で示す言い方のほかに、「孵化(しで)ぃの旅」とも話していたという。「孵(すで)ぃる」とは、生まれる、若返る、さらには再生をも包含した沖縄の言葉だ。

 年寄り同士で「あれはもう孵化ぃでた」と語り合う。名嘉は「次へと転化した意味を持たせている」と語っている。死と再生はひとつながりだ。

 ライフワークとして描き継いできた「万象連鎖」だが、シリーズⅢは島の光景などの具体的な広がりを失い、御嶽か、あるいは彼が体験した風葬の洞穴だろうか、舞台は固定されている。イメージの連鎖は時のうつろいを伴って変化していく。

 「捏手(こねりて)」から「拝手(おがみて)」へと神女たちは祈りを深め、ついに「シラセ」では直截に啓示を受けたかのようだ。その瞬間に、フォービズムのごとく顔が多次元へゆれる。

 歓喜の歌、踊りが綴られ、やがて生命の素だという「産玉(うぶだま)」が浮遊し繁殖していく。そこから隣り合うかのように髑髏(しゃれこうべ)たちへ、白装束の神女たちの謡(うたい)へと連なる。

 島で体得した、人も牛もバッタも鳥も全てが「孵化ぃ」る存在としての確信。イマジネーションは祭祀空間に再生の物語を紡いでいる。

 シリーズを見終わると、大きな部屋にいたる。そこは大パノラマの「大礁円環」。無数の多様な魚たちが珊瑚礁に群れていた。海は色に満ち、命に満ちている。名嘉睦稔は島への畏敬と感謝を描いている。(掲載作品は『万象連鎖』シリーズより。展示会は3月29日まで)