夢中になれること。

  少年は岩陰に隠れてもう何時間も砂浜のほうに目をやり、その目的の瞬間を待ち続けています。彼はクラスの誰よりも生き物が大好き。一度ふしぎとおもい合点がいかなければ、その生き物の習性や生態のことをとことん観察しなければ納得しません。

 少年にとってその日の納得できないこととは、砂浜のヤドカリもどき足跡。そのカタチはいつも見るのと違います。いままで見たことのない模様の足跡。その不思議に包まれた疑問をなんとしても確かめたいとおもった少年は何時間も岩陰で待った挙句、ようやくその足跡の意味を知ることができました。

なんとそのヤドカリ、後ろ向きに進んでいるではありませんか。この衝撃的な光景を目にした少年は好奇心の目を一層輝かせ、独りでしたり顔。ようやく納得して家路に向かったのです。

少年の発見は図鑑で調べられたわけでもないし、はたまた理科の先生やおとなたちに教えてもらったのでもありません。じぶんの力だけで発見したのです。

私たちは誰でも少年少女のころの思い出をもっています。それは、そのひとを作っているかけがえのないものです。ひとの体が食べる物でできているとしたら、ひとの感性や知性は経験のうえにでき上がっているのでしょう。

幾つになろうとも、それぞれの“夢中”を見つけることができれば、いいですよね。その“夢中になれること”が、ほかの誰かを幸せにできるのであればなおさら嬉しい。

そう言えば、あのファーブルも昆虫のちぃちゃな動きを何時間も飽きずに観察していた少年でした。彼はじぶんが“夢中になること”で世界じゅうの昆虫愛好者や研究者たちを幸せにしたんですね。<當山>

(掲載作品『引潮』1991年)