絵のわかるところまで。

「絵がわからない」を毎週のように連呼している私ですが、それでも「絵のわかるところ」というのもきっとあるはずです。きょうは、そのあたりについて話せればとおもいます。なにしろ美術館で働いている私ですから、そこまではコミットすることから逃げられませんよね。

たとえば、去年あたりから日本でもとくに注目され始めているオランダの画家フェルメール。日本でいえば、江戸時代の最初のころに活躍した画家です。よく窓辺で読書をしたりする夫人を描き、その物静かな光景は窓から射す光を受けて安らぎを感じさせます。でも、その安らぎにはかすかな秘め事も潜んでいます。それがフェルメールの絵の美しさと神秘性を持ち合わせている魅力であり、今でもファンの多い理由のひとつでしょう。

さてそのフェルメールについて有名な画家たちが感想を述べています。ひとりは同じオランダ生まれのゴッホです。ゴッホは「自分にはあのフェルメールのような繊細で美しい絵は描けない。なぜって、私は情熱を吐き出す絵しか描けないからね」と言っています。

それから名作『叫び』を描いたノルウエーの作家、ムンクはこのように言っています。「いま、窓辺に座って本を読んでいる婦人を描いている場合ではない」とちょっと批判的な物言いをしています。私はこのムンクの言い方は、少し間違っているのではないかとおもいます。どんな画家でも真剣に絵に直面しているならば、どんな理由でもひとから批判されるべきではないからです。

ところで、この3人の画家で誰が優秀で誰がレベルが低いかなんて言うのはもちろん野暮なことです。それは見るひとが、見るひとの感想を正直に述べることだけが大事であって、ひとの意見に左右されることではありません。

以上の3人の画家の作品が評価されるべきところを考えています。それはただ一点を言えばいいとおもいます。つまり優れた絵というのは、誰かが好きであろうが嫌いであろうが、そんなことはどうでもいいことです。言わば、作家自身がどこまで行っても正直(真剣)に絵と向き合っているかどうかということでしょう。それさえ満たしていれば、どの作品も「芸術的」と言わざるを得ません。そして、それを受け止めるのは他の誰でもなく鑑賞者のあなた自身でなければなりませんよね。

私は、そんなふうに絵を楽しむようにしています。

さてボクネンは上の作家の誰に近いでしょう。

もちろん情熱派のゴッホでしょうね。 <當山>

(掲載作品『祖谷の山』2016年。現在の展示会にて公開中)