絵のわからなさ。

ある作品を見て、自由に語るひとがいます。例えば、渡り鳥が飛んでいると、「あれは自由をおうかしているんですね」とか、額いっぱいに描かれた闘鶏が描かれていると、「作者はそこから抜け出したいと心の解放を求めているんです」とか、はたまた数千羽のバッタの群れが空をおおっていると、「一羽一羽の孤独を象徴していますね」とか、などなど言いたい放題。何を隠そう、その「言いたがり」は私自身なのであります。

美術館の仕事をして12年になりますが、つい最近までわかったつもりの解説をしていました。

ところが最近、「これは、ちょっとおかしぞ、おかしくないか?」という疑問が私の頭のなかを駆け巡るようになっています。

作家の人生から絵の根っこのようなものを掘り出し、さも正解なような言葉を並べたてているにすぎないということがようやくわかったのです。そもそも「絵」と「作家」を直結させることには余程の注意が必要です。もの静かな作家が「激しい絵」を描くこともあるでしょう。反対に、何ものにも物怖じしない作家が「静かな絵」を描くこともあるはずです。

ヒットラーが描いた油絵を一度みたことがありますが、なんと夕闇の静かな凪の海の上に満月が美しく浮かんでいるではありませんか。彼が美術学校に通っているときの作品だそうです。なんとも心の静寂をよく描き出していました。

やっぱり作品というのは、その作家のなかから純粋に出てくるものでしょうし、これを説明しようなんてとんでもないことです。ましてや作家と絵とを“言葉”でもって理屈づけようというのは解説の思い上がりと言わなければなりません。絵はどこまで行っても作家の「哲学や心情」と結びつけることはできないのが本当のところなのでしょう。

ボクネン作品は、特にその直感的な個性のためにいろいろと言われることが多いです。それもそういう人たち自身の感想ですよね。それはそれでそれぞれの楽しみ方で、申し分のない素晴らしいものです。

私たちはある作品を見て、衝撃を受けること以外なにができるでしょう。なにか言うことが必要なのでしょうか。ただ喜びに浸ればいいのです。そのことが前のフェイスブックにも書いた「沈黙の言葉」のほんとうに大事なことなのですから。(掲載作品は展示会でも紹介されている『星指す来島海峡大橋』2017年)                                      <當山>