ボクネン ・インタビュー

 

—こんにちは。きょうはあなたが30年前に描いた版画の処女作品『UNNAR』(ウンナー=伊是名島の豊年祭、1984年制作、下掲作品)のことを聞きます。

ボクネン ああ、それは興味深いなぁ。

—つまり、あの作品には余すところなく“祭り”“村”“文化”といった“人間の営み”が発露していて、僕の勝手な言い方をさせてもらうと、結局は全ての作品が最後にはあの『UNNAR』の世界に“原点回帰”するんじゃないかと思っているんです。作家はデビュー作品に帰って行くという言い方もありますからね。

ボクネン  あっはははは。相変わらず、君は大胆な言い方をするね。しかし君がそう言うものだから、不思議なことにそう思わないでもないなぁ(笑)。言葉にされたからそう思うと言うのではなくてね。つまり以前に自分が描いた“絵”を見せられるとね、それはそう感じるものがあるというのは確かだね。なんと言うか、“絵”を見ているとなぜか君の言うことがわかってくる気がするんだ。

—  『UNNAR』という作品には、“人”だけじゃなくていろんな“文化”や“風土”が噴出しているんだとおもう。

ボクネン  確か『UNNAR』を描いているころには『闘鶏(タウチー)』(1987年)も描いているけど、作品の背後に“人間”がいるという意味ではそれは同じことが言えるかもしれないな。

—そうなんだ。その『闘鶏(タウチー)』の背後にも闘鶏士や見物客のような“人間”の存在を感じるんだよね。加えて言えば『牛頭』(ごず)や『雨花』(うか)や『桜の花滝』もみんな、“人”が背後にいる『UNNAR』と言う作品に“原点回帰”しちゃうんじゃないかな。

ボクネン  君が作品の背後に人間を感じると言うのは、一種の“立ち現れ”と言うものだろうな。“暮らされてる”と言うものが“絵”に“立ち現れ”てくるんだ。

—そうだね。

ボクネン 例えば“詩”なんて言うのもそうだけど。言葉が並べられれているなかで、突然脈絡のない言葉が出てくるでしょ?その言葉がいろんな言葉と重なりあって、その言葉の向こうに立ち現れてくるものがある。それが“絵”と同じように、“詩”も背後にあるものが出てくるんだと思う。

—ふんふん。なるほど。

ボクネン 僕の“絵”は、それをやろうとしているのかなと、思うときがある。優れた詩人が書くものには、作品の背後に人間が見えるわけだよ。表れてきた言葉が独自の時空を舞っているということだろうね。

—はい、はい。

ボクネン “詩”の言葉というのは乱暴に使われているかも知れないけど、その背後には清らかな空間があるように思える。例えば子どもたちや人が集う情景が立ち現れてくるんだ。そうすると、“詩”は文字通りに言葉だけを捉えていると“詩”にはならいのだろう。

—つまり、なにごとにも創作する時にはやはり言葉というのが、どうしても必要になってくるということだね。

ボクネン そう。“詩”は言葉があることによって、向こうに立ち現れてくるものを表そうとするんだね。これは“絵”でも同じことが言えるじゃないかな。

—ふむふむ。

ボクネン  『牛頭』でも、牛の向こうに牛が生きてきた時間や牛とともに生きてきた人たちの時間が立ち現れているんだね。

—そうすると、あなたが描いたたくさんの絵には、やはり『UNNAR』の人間世界に“原点回帰”する要素が多分にありうるわけだね。

ボクネン  そうだね。作品の背後の世界にたくさんの人に共通して出てくるものがあるとしたら“絵”にとって大事なことだね。

—それこそ、いい作品ということなんでしょうね。

ボクネン  しかし、作家はそれを意図して描くのではないからね。まあ、作品たちが『UNNAR』の人間世界に“原点回帰”するというあなたの発想は面白いけど、僕にはそれはまだよくわからないよ。

—そうかも知れない(笑)。それでは、きょうのとこはこれで終わります。

(2018年5月10日、読谷アトリエ)