ボクネン・インタビュー “省略”

きょうは絵を描くときの“省略”について聴きたいと思います。というのは20年近く前に、あなたは作家の大城立裕さんに「絵には省略ができないんですよ」と言ったことがありますよね。そのとき大城さんは「省略は年齢がするものだから」と答えていました。それから、あの“省略”というのはどうなったんでしょう?

ボクネン ああ、そういうこともあったね。だけど“省略”というものは、作家や哲学者などが作り上げたということもあると思うね。例えば書画の場合、“省略”して“省略”して最後に骨だけを残ったものが究極の作品だという言い方もあるけど、どうも僕には信じがたいね。

-つまり、これまで言われていた“省略”を疑ってかかっているというわけですね。

ボクネン 例えば作家の吉川英治が書いた『宮本武蔵』は、武蔵の著作である『五輪書』や『兵法35か条』などの資料をもとにして、武蔵像はこうじゃないかと想像して書いたもの。そこに武蔵が剣法や書画などで修行をするなかで“省略”という概念も出てくるわけだ。他にも作家や哲学者が考えたそれぞれの“省略”というものはたくさんあるとおもう。

-とすると、武蔵の“省略”というのも吉川英治の考え?

ボクネン そう。『宮本武蔵』の“省略”についていえば、吉川英治の思い込みなのかも知れないということに僕たちは疑問を持たなければならない。削って削った挙句に最後に残ったものこそが素晴らしいというのは、僕は信じないよ。

-であれば、“省略”など気にせずに絵を描き上げるにはどうすればいいのか。

ボクネン つまり絵は“気分”や“気持ち”を描くもので、“省略”とか“スタイル”ではないと思う。そんなことには頓着しないようにして絵は描いていくしかない。

絵のなかの動きは“時間”なんだ。風景のなかにある“時間”、“空間”、そして“人間”を描かないと僕にとっては絵にはならない。そこにこそ、例えば絵の “物憂げさ”などが祭られているんだし、作家が自分の心のなかにも“物憂げさ”を見ているんだと思う。

-なるほど…。

ボクネン 結局、僕は絵で鑑賞者に共通の感覚を届けたい。つまりそれは絵を見るものとの“共感”だと思うんだ。それがなかったら“省略”も“スタイル”もなにもないよ。

絵は“気持ち”さえあれば、描けるとおもう。

-つまり絵は頭で考えるのではなく、手で考えるということかも知れない。

ボクネン 絵は一種の記号なんだ。だから経験してないとその絵は、読み取れないし“共感”もできないと思う。だけどもし鑑賞者に本能みたいなものがあって、経験していなくても絵を“共感”できるということがあるかも知れないね。これだけは僕にもわからないなぁ。

-ふんふん。

ボクネン 僕は絵には生きるエネルギーや力があって、それが素晴らしいものだということをみんなに共感してもらいたいんだ。だから絵にはいつも“死”が内包されていなければならない。

-そうですか。今日はどうも。

(2018年4月12日。アトリエにて)