ボクネンインタビュー

 

この3月24日から春の展示会『水の記憶』が始まります。そこで本日は作品に表れた“水”について聞きます。これは、ぼくの個人的な見方で恐縮ですが、『ブーゲンビレア』(1989年)や『花波』(はななみ、1993年)を見て、なぜか“水”の雰囲気を感じるんです。あなたはいつも「絵は観る人のもの」って言ってくれますから、この際言わせてもらっているんですが(笑)。

ボクネン ほう、そうか。以前にも君はそういうことを言ってたよね。それでぼくも、そのことに気をつけてじっくり観察したことがあるんだ。確かに『花波』では、絵のトゲトゲが波の突起のように見えるよね。また、全体から見ると、その突起たちが集まって川の流れのようにも感じられる。

そうですか。ぼくの感想は幻想かも知れないと思ってはいたんですが。

ボクネン いやいや。絵はそれぞれの見方があって当然。それでいいんだよ。実際、そういう見方をしてくれると作家としても興味深く考えさせられるよ。

それで、その“水”を感じる理由をぼくなりに考えてみると、植物であるブーゲンビレアは「水と光」を養分にして生きてますから、「人間」だって同じじゃないかってことです。だから、ぼくが『花波』や『ブーゲンブレア』の絵を見て“水”を感じると言うのは、自分の身体の実感としてそう見えうるということじゃないかと…。

 

『花波』

ボクネン ほほう。つまり人間は“水の申し子”と言えるし、君の感じ方でいえば、“植物というのは水の表現の別のカタチをしている”というわけだね。

ああ、そうだ。その言い方だとよくわかる。

ボクネン 確かに君の言う通り、この二つの作品には水っぽい感じがあるな。

もっと突っ込んで言えば、『花波』が目に見える“水”とすれば、『ブーゲンビレア』は目では見えない内蔵で躍動する“水”のようです。

ボクネン 『ブーゲンビレア』は胃袋とか腸とかのうごめきということだね。確かに内部から疼くような感じはあるよね。ふむ、そういえば、『ブーゲンビレア』を描いているときは内から発露するような気分があったよ。それに関連して言えば、ぼくは決してブーゲンビレアを具体的に見て描いてるわけじゃないんだ。

とすると体のなかから発露する『ブーゲンビレア』を描いているってことですね。

『ブーゲンビレア』

ボクネン そう。そういうことで言えば、対象物を見て描くってことはぼくの場合あり得ない。つまり身体化されていないと、ぼくは自分の速さで描けないんだよ。だから描く素材は体のなかから取り出すって感じかな。つまり記憶の残留しているものを引きだすんだ。その残留は記憶として思い出せないものまで含めてね。覚えている実感はないのに出てくるって感じかな。

その残留しているものっていうのは、ぼくたちが生まれる以前の遺伝子のようなものまで含まれているってこと?

ボクネン そう。ぼくたちには自分だけの記憶じゃなくて遺伝子の記憶もあるんだよ。はるか遠い生物との共感もあるってことだね。それは匂いや風に当たったときの瞬間に誰でも感じていると思う。

ぼくが絵を描くとき、「降りてくる」というのは誤解を呼びやすいから使わないようにしているけれども、わかりやすくいえば「記憶としてすでにある」「その場に出てくるもの」ってことなんだ。

そういう意味で絵を描くということは、見えないものこそ遠大なんんだって気がするね。見えているものこそ、それを阻害しているんだ。

先ほど君が内臓的なものを感じるって言ったけど、結局その内臓的なものを直接見て描いたわけでもないけど、そのカタチが自然に出てくるって感じだね。

もっといえば、生き物というのは“液”のなかで骨や血や筋肉を組み立てて生きているわけだ。実際はその仕組みこそが“水”そのものなんだろな。それで『花波』や『ブーゲンビレア』が君の感じる“水”的なものを喚起させることになっているのかも知れない。

ああ、それで “水”的なものを感じる理由が少しわかったような気がします。今日は、どうも。

(2018年3月8日、読谷アトリエにて)