投稿日時:2011年04月11日(月) 15:43
万想連鎖 6
ボクネン版画に思いを寄せる全国の通信員たちの「声」を届けます。トップバッターは、福岡県の那和慎二さん。その20年来のファンぶりは、作家や作品の機微にふれ、思わぬ情報がいっぱいです。それでは、那和さんの『万想連鎖』シリーズをごゆっくりどうぞ。
万想連鎖6 緑門の陰に
那和 慎二(福岡通信員)
伊是名島に渡って、初めて見る風景、絶景には目を奪われた。初めて渡った夏の日は晴天で、濃いスカイブルーと白い雲のコントラストに圧倒された。さとうきび畑の向こうに稜線を太く描く松が青空を際立たせている。シラサギ展望台に立つと、沖縄本島で見る海の色とは一味も二味も違う、伊是名の海の色があった。勢理客から伊是名に向かって、誰一人いない干潮の海岸線をあるいたときは、本島の人工ビーチで遊ぶ観光客には申し訳ない贅沢気分、この贅沢を誰かに教えたいという気持ちと誰にも教えたくないという気持ちとがない交ぜになった。
限られた滞在時間で島を知り尽そうとバイクを駆るには、島の隅々まで整備された舗装道路は便利だったが、違和感はあった。2車線の道路をいくら走っても対向車はほとんど現れない。ごくたまに農作業の軽トラックが会釈をして行き過ぎるのみ。必要以上にアスファルトで覆われている。島全体が、元々の自然を留めていると勝手な想像をしていたが、土地の多くは農地として整備されていた。人の手の入っていない海岸線にも、漁網・浮き・ペットボトルなどの漂着ゴミが打ち寄せられて散乱していた。それらのゴミが島内のものか島外のものかはわからない。しかし、島もまた生活の場である。生活をすればゴミは出る。当然のことながら島内にもゴミ処理場はあるのだ。しかし、自分勝手なイメージが外れて、見てはいけないものを見てしまったような気がした。モクマオウが木漏れ陽を作る白い砂浜を写真に撮るとき、気がつけば、そのゴミたちが写り込まないようにしていた。見たくないものを見なかったことにしようとしていた。
京橋のギャラリーのSさんから聞いていた場外離着陸場北側の海岸線。そこに緑門の原風景を見つけたとき、その景色に息を呑みながら、頭の片隅を一つの懸念が離れないでいた。緑門を抜けて海岸に出たとき、その懸念は現実のものとなった。想像以上のゴミが木の根元や草むらに絡みついていたのだ。その量は、見なかったことにするには多すぎた。美しい風景の足元にある現実をどう受け入れようかと戸惑っているそのとき、ワサワサワサワサという異音、ちょっと囁きのようにも聞こえる異音が聞こえてきたのである。音の方に目をやると、熟したアダンの実から聞こえてくる。よく見ると、ヤドカリがその実に群がって音をたてていた。さらに目を凝らしてみると、異形のヤドカリがいるではないか。洗剤ボトルのキャップを纏ったヤドカリがアダンに食らいついていた。自分の目にゴミと映ったものを、ヤドカリは生存の道具として生きている。人間の生活もまた自然とどこかでボクネンさんが語っていたことを思い出した。(続く)