投稿日時:2016年04月14日(木) 14:14
ギャラリー散歩
この4月17日(日)で、いよいよピカソの『ゲルニカ』沖縄特別展が終わる。もともと観るつもりがなかったというのは、今回展示される『ゲルニカ』自体が複製であり、それもタピスリということもひっかかっていたからである。しかし去った日曜日、那覇に行く機会があって、やっぱり足を運ぶことにした。
やはり、ぼくの予想は的中した。ピカソの監修によるタピスリとは言っても、線に織物の材質感があり、なんとも迫力にかけた。それも、原画のための習作も「コピー」とあっては、なんだか淋しいものがあった。
しかし、パブロ・ピカソの天才ぶりは『ゲルニカ』(タピスリ)からも伝わるものがあった。習作の部分的な絵も、その線のしまった柔らかさや動物・人間の異様な存在感を示す「風体」には驚かせるものがあった。それに全体の構図、バランスも天性的にすきのないものであった。
このキュービズムの時代、ピカソは「子ども」や「原生人」の想像力を基軸にした「絵」を追求していたようにおもわれる。そんなことをおもったときに、「もしこの『ゲルニカ』が原画であればどんなによかったろう」と思わずにはいられなかった。それほど「原画」は「観るもの」にダイレクトな「絵画の意志」というものを伝えてくれるに違いないのだ。もう、15年ほどまえに、ニューヨークでルノアールの『少女』を観たとき立ち尽くしたことがあった。それは原画がもつ“息吹き”というものが、からだ全体に感じられたからだ。
ぼくたちは、仕事を短縮化するために、つい「コピー」を観てしまうが、これではなにかを落とし忘れているようなものだ。
わが「ボクネン美術館」でも、いつも生の「版画」を展示している。機会を見つけて、ぜひ足を運んでもらいたいとおもう。