投稿日時:2016年03月29日(火) 15:36
ギャラリー散歩
3月26日から新しい展示会『神々の山』が始まった。展示の7割ほどが富士の絵になったのは、作家にはほかにも「山」の作品がたくさんあるのだが、この数年、精力的に富士の作品を手がけたからである。展示された55点の山の絵のうち、ぼくの好きな作品『雲海富士』(48.0×47.0 cm)のことを話してみる。
この絵を前にして、まずもって驚いたのが、雲海の「雲」の奇妙な造形である。まんなかに山頂を少しだけ突出させ、バックの上下7分の1程が陰や闇の世界をつくりだしているが、周囲は生き物のごとく蠢いている「雲」たちである。そういうことからすると、やはりこの絵の主人公は「山」ではなく「雲」たちである。この「雲」たちは、まるで民族移動のように右側から左側へ動いているようにみえる。
その「雲」である異様な「模様」の動きは、なんらかの強いイメージを引き立たせている。このイメージにもうちょっと注意深く立ち入ってみよう。もともとこの「雲」たちは「模様」として描かれたはずだが、いつのまにか「生命」を宿し、なんらかの活動に入っていることになる。ぼくがこの絵に魅かれるのは、この「活動」現象であり、まずもって本来の「模様」が「生命」に変わっていったという異変だ。
言ってしまえば、この「模様」が「生命」に変わった時点(現象)が、ぼくに興奮をもたらす大きな原因になっているわけだ。この「生命」の動きが醸し出す奇怪・恐怖・自由・脱出といったイメージは、なんだか引き込まれるのだ。これが、ぼくをこの絵に魅入らせているのだ。それにしても、“分からなさ”こそ芸術の意味だというのも、これまた不思議なことなのだ。
いつものように要領を得ない話に終始してしまったが、「絵」はやはり観るものにとって、その“分からなさ”こそが核心だということだろう。