投稿日時:2014年04月18日(金) 14:28

おしゃべりQ館長 File 15

OQ表紙

 おとといの4月16日、名桜大学で作家のよしもとばななさんと、日本ロレックス社長のブールス・ベイリーさんの対談(『ゆるやかな歩み』)がありました。開学20周年・公立法人化5周年を記念して行なわれたものです。さっそくボクネンと私は、名護に向かって高速道路を走らせました。つまりは、ばななさんとベイリーさんは、ボクネンの友人たちなのです。まぁ、それはさておきですが。
 対談の翌日は、ボクネン美術館におふたりとも来て頂き、いくらかおしゃべりさせてもらいました。そこでボクネン作品について、ばななさんにけっこう貴重な意見を聴かせてもらったので、ここで紹介しておきます。ちなみに、そのときはボクネンは用事が入っていて、美術館では一緒ではありませんでした。
 ばななさんによると、最近ボクネンの絵に対しての見方が変わってきているというんです。わたしは、さっそくくわしく聴いてみました。すると自宅に飾ってある『波紋』(2000年、62.6×47.5cm)をみて、わかってきたことがあるというんです。つまり最近ボクネンの絵がすごく立体的、3Dで見えるというらしんです。そこにいるような感じで描いているということがすごくわかってきたと言うんです。そういえば、この作品、水平線にとても奥行きを感じるし、水紋だって見てる側に広がってきそうで怖いくらいです。
 私にとってこのばななさんの「立体的」「3D的」という言い方は、とても勉強になりました。私は前からボクネンの作品に対して「超視線」という言葉を使ってきました。つまり、人間はこの位置からは描けないのではないかというのが、けっこうボクネン作品には見受けられるからです。
 かつて龍村監督(「ガイアシンフォニー」制作)も、ボクネンについて「身体性の記憶」ということを強調していました。つまり、ボクネン画には「そこにいないのにいるように描ける」という重要な要素があるのだとおもいました。ばななさんの話につなげれば「そこにいるように描いているボクネン」ということなのでしょう。
 さて、ここでわたしたちが言えることは、なんでしょう。
 実際にその場にいなくても、その場を「立体的」「3D的」に感じ取る「身体的記憶」というものを、からだのなかに維持し続けているのがボクネンなのかも知れません。もちろん、これはすべてもひとたちもかつては、備えていたものでしょう。その能力を私たちは早々と手放したのでしょう。これは確か龍村監督もトークイベントで強調していたようにおもいます。
 「身体性の記憶」。
 これは、やはりボクネンアートを解く重要なカギなのだとおもいました。
                    『波紋』