投稿日時:2012年01月01日(日) 15:37

万想連鎖18

風の島からファサード2


 ボクネン版画に思いを寄せる全国の通信員たちの「声」を届けます。トップバッターは、福岡県の那和慎二さん。その20年来のファンぶりは、作家や作品の機微にふれ、思わぬ情報がいっぱいです。それでは、那和さんの『万想連鎖』シリーズをごゆっくりどうぞ。

万想連鎖18 見透かされる

   那和慎二(福岡通信員)

時間になっても現れないボクネンに、実はほっとしていた。あの眼で睨まれてしまったら、その瞬間、思考停止に陥り、楽しいランチなどというものはあり得ない。緊張した時間が早く終わらないかと願うばかりになってしまうのではないかと、内心恐れていたのである。昨年のボクネン美術館開館日に、偶然ボクネンと会い、お茶をご馳走になった時間もそうであった。感想を求められても頭の中は白くなるばかりで、夢のような時間も、半分は早く醒めることを願っていた。

ボクネンが来ないから、當山館長とおしゃべりしているうちに、1時間以上が経過していた。當山館長の眼光もなかなか鋭く、恐れを抱かないでもなかったが、それ以上の親しみやすさを全身に纏っていて、また、ボクネンという共通項を軸に、お互いに遠慮なしの饒舌の応酬となった。ボクネンとの付き合いが長い館長は、ほとんど初対面に近い私にとって、ボクネンにまつわる長年の恩師になったのである。近いか遠いかの差はあるが、それぞれの立ち位置から築いてきたボクネン観をぶつけあったことは、その日までにお互いが知らなかったという壁を取り払った。おしゃべりのテーマは、なぜボクネン作品に惹かれるのか、ということに尽きる。そこで出てきたキーワードに一つが、「見透かされる」というものだ。ボクネンが画に切り取る森羅万象は、誰もが見ていながら、見えなかったものを映している。それが何かと端的に言葉にできれば苦労はないが、世界を見るとき、その表面の裏側にあるもの、そのまた奥にあるもの、その場面に至る時間的な背景までを感じて、見えているのではないか。画にはそれが表現されているのだと思う。いささか大袈裟かもしれないが、ボクネンと対峙したとき、その眼によって、自分という人間が瞬く間に解像されて、裏も表も過去も未来も映した今の自分を見られている。そのような恐れから「見透かされる」という言葉が出てきた。當山氏の語感とは一致していないかもしれないが。ボクネンがいないことをいいことに、ボクネンがいたらこんな話はできないと言いながら、楽しいおしゃべりは3時間にも及んだ。もうボクネンが現れなくても、満腹であった。

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満たされた気持ちのまま、1Fのショップでボクネングッズを物色していると、携帯電話がブルった。今さっき別れたばかりに當山館長からの電話で、ボクネンが間もなく現れるという。満腹であったはずなのに、急に空腹感を覚えたような気がした「見透かされる」覚悟ができていたので、ボクネンの眼を恐れる必要がなくなっていたのだ。當山館長との語らいが、ボクネンに会うための大切な予習の時間になった。ボクネンの懐に抱かれるような授業時間が始まった。  掲示作品[万象連鎖211「繁芽」]2010年