投稿日時:2014年10月27日(月) 10:38
ばんばんニュース 第16号
絵はじぶんとじぶんを会話させるもの。
〜やってきたよボクネン美術館〜
私たち美術館のスタッフは、絵を解釈することなどとうていできないことだとおもっている。たとえばマルセル・デュシャンというアーティストは「作品を説明したり称賛したりするのに役立つようないかなる言葉といえども、感覚を越えて生気するものの誤った翻訳なのだ」と言い切っている。たしかにそうだとおもう。
「感覚を越えて生気するもの」を大事にしなければ絵を理解するなどあきらめたほうがいいのだろう。だから私たちは、その「感覚を越えて生気するもの」のヒントになるものを受け取るためにいつも来館した鑑賞者からの意見を勉強のいしずえにしている。
さてここでそのヒントをぞんぶんにプレゼントしてくれた最近の来館者たちを紹介しよう。
10月21日の11時30分。来館してくれたのは社会福祉法人蒼生の会(自閉症相談支援センター)の5人。年齢は10代後半から20代前半の若者たちだ。
私はその日、美術にかんしてとても啓蒙され勉強になった。
まず、髪のながい女の子(A子さん)。
彼女は美術館に入るやいなや、走り出したのである。もちろん美術館の内装や作品をみながら…。愉しそうに大きな声をだし、あたりをを走り続けている。
私:「先生、どうしてA子さんは、あんなにはしゃいでいるのですか?」
すると引率の先生がこうこたえてくれた。
引率の先生:「A子さんは愉しくなると、いつもああいうふうに走りまわるんですよ」
私は声をつまらせた。
絵を受け取る、楽しむ、理解するとはこういうことなのかも知れないと…。いつも文字で絵を解釈する私などひとこともなかった。つまり絵を受け取るのは他人とのコミュニケーションではなく、鑑賞者自身がじぶんで喜び、じぶんで悲しむことなのではないだろうか。
さて次は男子。彼はただだまって、ほぼ40分ほど『大礁円環』の前のベンチにすわり、まんじりとひとこともしゃべらず、ただただその作品の前でみつめていばかりいたのである。
絵はほんとに見るひとのためにあるのであり、「見ること」はじぶんと話すことであり、それは人間にとって大きな根っこの部分なんだと…。
バスを何種類も正確に描く男子もいた。それも外から見たバスの絵。先生から聞くと、そうとう精確に描くという。
赤が好きだという女の子は、目の前にある作品には「赤」が描かれてないのに、その作品をみつめながら「赤が好き」と何度も繰り返す。
すると引率の先生はこう言う。
「その作品のなかに、赤が隠れているのかも知れませんね」
と笑った。
こんなふうに蒼生の会のみんなは、おもいおもいにボクネン美術館を堪能してくれた。ほんとに「堪能」してくれたのだった。
それから、みんなはまた来館を約束して、ワゴンに乗り込み去っていった。
美術が言葉ではなく「感覚を越えて生気するもの」でなりたっていることがよくわかった一日であった。
蒼生の会のみなさん、どうもありがとうございました。
『大礁円環』を前に「蒼生の会」のみなさんが記念撮影