投稿日時:2014年05月12日(月) 10:40

万想連鎖 32

風の島からファサード2

万想連鎖32 眼(まなこ)

那和  慎二(大阪通信員)

 

 連休最終日の静かな朝。いつもより早く目覚めて新聞に目を通していた。ふとテレビのスイッチを入れると、いきなりボクネンがガジュマルの下でしゃべっている。まったくの不意打ちを食らった。こんなタイミングでボクネンに会えるとは思ってもみなかった。連休だから沖縄行きという選択肢はあったが、沖縄初心者でもあるまいし、今は大阪在住、つまり長期大阪観光中。来客とともに観劇や舟遊びの大阪観光を楽しんでいた。こんな放送があることが知らされていない訳はなく、あらためてボクネンサイトを確認して、見落としていたことに気付いた。画面にそれらしきことが書いていてあったのを見たような気はするが、読んでいなかったのだ。見れども見えず、だった。

 テレビ画面の中のボクネンはそこにいるようであり、初めて知る今帰仁の浜のガマも、共に訪ねたような気分になることができた。いまどきのテレビは容赦なく細部を映す。実際に対面すれば、そこまで人の顔をしげしげとつぶさに観察することはできないであろう。アップされたボクネンの顔は等身大以上で、眉間の皺も、鼻の穴も、豊かな黒髪も、そして鋭さと柔らかさが同居する眼差しも、遠慮なくテレビ画面にすり寄って観た。人の顔はおもしろい。還暦を過ぎたというボクネンの顔は、以前と違っているであろうに、その違いを超えて同じボクネンと認識できる。初めてボクネンに会ったのは、沖縄三越の個展会場。30代のその頃と今とでは風貌は異なるが、その存在が放つオーラは変わらない。そのオーラの一番の源は、あの眼。同じ人間だから、その構造に変わりはないであろうに、あの眼が見ている景色は、常人とは異なる。以前、ボクネン美術館では最前列で制作ライブを見ていたが、テレビの中の制作場面では、カメラに遠慮がなかったのかもしれない。手元が良く見えた。見えてはいたが、下絵でもない墨の跡と関係なく彫られて行く線なき線からは、まるで絵が見えてこない。ネガ・ポジ反転、左右反転、モノクロ化と彩色と。被写体の裏側に入り込んでしまわなければ見えないような景色を見ているかのよう。魚湧く海の森も、通りのクロトンも、ボクネンにとっては見えているものではなく、あの眼だけが幽体離脱して、被写体の中に入り込み、そこからボクネン自身に信号を送っている、とでも思わなければ、あの制作風景は常人には信じ難い。

 あの眼が見つめる次なる世界には、どんな風景が広がっているのだろう。そこから紡ぎだされる作品群を楽しみにしたい。さて、しかし、その作品を見る眼は、自分自身の眼に他ならない。自分の眼に代わってボクネンの眼に期待したとしても、最後に頼るのは自分自身の眼しかない。その眼が、見れども見えずでは話にならない。それではトイレ美術館に籠って、とくとボクネン作品を見る眼を鍛えようか。

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