投稿日時:2017年06月20日(火) 16:25
浦添ようどれ。
昔から不思議に思っていたことがあります。浦添城跡の一画にある「浦添ようどれ」のことですが、その王陵には、首里城で王に就いた尚寧王が葬られていると言います。彼がその墓に眠るのは、浦添出身の王だからということになっています。
それはいいとして、なぜ「ようどれ」(夕凪)なのでしょうか。「浦添ようどれ」の別名は、「極楽陵」とも言いますから、「夕凪」のなかで静かに眠ると言うことを考えれば、「浦添ようどれ」と言う名前もうなづけるところもあるかも知れませんね。
ただ、そこには首里からわざわざ浦添に墓をつくると言う物悲しさが漂うのも感じないではいられません。つまり単なる「夕凪」だけで、その物悲しさを説明するには、なんだか無理があるような気がします。
ところで、その墓名をしっかりと納得させる理由を最近、やっと見つけました。「ようどれ」と言うのは、「世哀」とも書けると言うのです。つまり「浦添ようどれ」は「世の哀れ」を儚く思って名付けらたと言う解釈ですね。
そうすると「夕凪」より「世哀」の方が、がぜん納得できますよね。それにしても「世哀」(ようどれ)って言葉、素晴らしいですね。琉球語の良さがよく出てますよね。(ボクネン掲載作品『珊瑚花畑三十五「夕凪』」<1991年、48.5×61.6cm>)