投稿日時:2015年08月18日(火) 17:12
おしゃべりQ館長 その25
今回は、ボクネン作品について話してみたい。おもえば『Bang Bang』(館長の言説誌)や、新聞等でもけっこうボクネン作品の批評はやってきたつもりだが、いまだもって、納得のいく言説をやった試しがない気がする。私の実力のせいもあるのだが、とにかくボクネン作品のカテゴリー的な「引き出し」が多いことが私の筆力のおぼつかない理由になっていることもあるのだろう。その「引き出し論」についても、そのトータルな機構を考え続けているのだが、言説としてはまだまだである。ちなみに今年中には私の『ボクネン論』が一冊にまとめて出版することになっているので、その切は大いに叱責をいただきたいと思っている。
まえふりが長くなった。私がここで新たな作品論を言ってみたいのは、2006年制作の『飛蝗』(ひこう)についてである。この作品は、館長ブログの『絵を待ち伏せる言葉たち』No.29(7月22日)でも、紹介したので、よかったらご覧になっていただきたい。とりあえず『飛蝗』は末尾に載せてあるので、それを観ていただきながら私のつまらない言説につきあってもらいたいとおもう。
さて、私はボクネン作品をいろいろとみてきて大体に感じていることがある。それは「過剰」だ。実は今年出版を予定している書籍の内容も、この言葉がキーワードになっている。ボクネンの絵は、とにもかくにもこの「過剰」という手法に綜合されているとおもう。つまり、ボクネン作品は長所も短所もすべてこの「過剰」の渦に巻き込まれおり表わされているとおもう。私のこの言い草も、まだ中途半端な域を出ない言説なので、そちらへんのことは今後に考えていきたいので、それまでご勘弁いただきたい。
そこで、ここで言説する作品が『飛蝗』なのだが、その理由がこの作品に私の考えるボクネン作品のおける「過剰」の意味がびっくりするほど凝縮されていることを感じたので、ここに紹介してみることにした。まず、この『飛蝗』には農作物に多大な被害を与えるという飛蝗(ばった)の大群の習性が、作品前面に「過剰」に描き込まれている。そして作品下部の2割ほどの高さに大地があり、その上を農夫がすべてを諦め切ったように茫然と佇み、天や飛蝗を仰いでいる。ここには、人間がその営みの歴史のなかで何度も自然災害にあい、「やれやれ」と言いながらも我慢強く生きてきた歴史(とき)の流れを読み取ることができる。「人間と自然」がうまくいかなかったり、またうまくいったりするというバランスのなかでこの地球の時が刻まれ、人間の営為がなされてきたのだということがよく伝わってくるのである。
さて、ここで「過剰」は、私たちになにを暗示しているのだろうか。私はこれまでボクネンの「過剰」は、じぶん自身の制作姿勢として「過剰」を担い続けてきたのだとおもっていた。ところが、この作品のなかでの「過剰」は、自然のなかにもしっかりと存在していることがわかるのである。いや、自然のなかにこそ「過剰」は根を張っているようにおもえる。この『飛蝗』という作品は、私にそのことを十分に気づかせてくれる。おそらく、他の作品でも、この作品ほどではないとしても、どこかに自然の「過剰」がいろんな形で描かれているはずである。
ここで、最後にこう言っておきたい。ボクネンのアートは作家自身の「過剰」と自然の「過剰」の掛け算なのである。そして、それは人間がどうすることもできない大自然の「過剰」と言えるだろう。
『飛蝗』(ひこう)2006年