投稿日時:2015年07月27日(月) 14:55

おしゃべりQ館長 その23

OQ表紙

 「戦争画」について

 日本の敗戦から70年が経過した。国会では安保関連法案が衆議院を通過し、参議院での審議に移ろうとしている。日本もかまびすしい状況になっているのだ。そんななか、巷では「戦争画」なるものが、いろんな戦後70年企画と結びついて世をにぎわせているようだ。さて、こんなときだからこそ、「戦争画」なるものを考えるいいきっかけになるのかも知れない。

 さて「戦争画」とはなにか。その画面に戦争の惨い状況を描くことによって、戦争の残酷さを知らしめ、その負の遺産を伝えていこうというものなのだろうか。たとえば、いろんな「戦争画」が私たちの目のまえにあるし、何度もみてきた。ピカソの『ゲルニカ』、丸木位里・俊が描いた『原爆の図』、最近では沖縄で展示会を催している増田常徳の『70年の旋律-OKINAWA』などがあり、日本全国これはもう枚挙にいとまがないほどの「戦争画」企画展はあるのだろう。

 これらの「戦争画」をみていくと、確かに「戦争の悲惨さ」を伝えるべく表現活動がなされている。これらは世に認められる正当な作品たちに違いない。ところがだ、「戦争画」は、それで「戦争画」足りうるのだろうか。もちろん、それらの「戦争画」には、戦争の悲惨さを訴えるテーマ性がふんだんに表現されているに違いない。そして、それらの戦争表現は作家自身の資質からきたものであるにちがいない。

 それでは、作家自身の資質とはなにか。その資質は、芸術家自身がもっている「タッチ(文体)」ということになろう。少なくとも、そのタッチ(文体)こそが、大きな資質をもった表現要素となるはずである。とすると、「戦争画」の芸術的なレベルの高さは、「頭」で考えた着想というよりも、やはりその「タッチ(文体)」からこそ論じなければならないというような気がする。

 「戦争画」における過度な残酷さの表現なども、確かに作家の重要な力量なのではあるが、しかし、それは飽くまでも「タッチ(文体)」によらなければならないだろう。そして、その「タッチ(文体)」を、より高めるものとして「芸術係数」が深く関わらざるを得ないだろう。「芸術係数」とは、作品を描いているうちに(いくらかテーマ性を追求しながら制作していようとも)、画家自身の考えも及ばない、ふとした表現が自分の「手」から派生してくるという「自分を越えた」ものとしてとらえることができる。この「芸術係数」のもとでは、もはや戦争表現に必要な「素材」だけをあてにしているようでは、なんとも埒があかないのだとおもえる。そうなると、「戦争画」は、当初のテーマ的な目的を失ってしまう可能性も十分にあり得るのである。

 私が言いたいことは、いくら作家が「戦争画」を描こうと強く胸のなかで思っても、そこには作家によって別のテーマに引っ張られていく場合も大いにあるのであり、芸術性の高い「戦争画」に到達するのは困難を究めることもありうるのである。つまり、鑑賞者を意識し過ぎた「戦争画」は危険だということである。従って、優れた「戦争画」は作家の「頭」ではなく「手」から繰り出されるのが順当なのだとおもう。

 昔、美空ひばりが「悲しい歌を悲しい顔でうたっちゃいけない。それは三流の歌手なのよ」。と言ったそうである。「戦争画」にしても、ただ悲惨に描けばいいというものではないということだ。

 結局、作家の「じぶんに向かった」自己資質による「戦争画」こそが、優れた作品になるのだろう。