投稿日時:2013年07月04日(木) 10:24

おしゃべりQ館長 File 10  

OQ表紙

「福田博之」という超視線 
 「水曜日は一日じゅう美術館にいますから、どうぞいらっしゃってください」ということで、昨日の7月3日はボクネンファンのひとり「福田博之さん」の来館を待っていた。ところが待てども連絡が来ない。「もう来ないだろう」とおもったやさき午後6時10分まえ。電話が入ったのである。「これから30分ほどでそちらに着きますが、よろしいでしょうか」というながれで、Q館長と福田さんとの「おしゃべりバトル」が1時間半ほどぶっちぎりでひと呼吸もなく続いたのであった。
 
福田さん 「當山さん、私はボクネンの作品を見て以来、とりこになっているのものですが、それが次から次へとそのじぶんの『これだ!』という作品が変わっていくんです。これは、どういうことなのでしょうか」
Q館長「ふむふむ。それは当然だとおもいます」
福田さん「…それは、どういうことでしょうか?」
Q館長「まずボクネン作品には、だいたい7つほどのタッチがあります。例えば『緑門系』、『万象円環』系、『万象連鎖シリーズ』系、そして『巌臥蒼龍』系などです。もっとあるでしょうが、ここでは紙面が足りなくなるのでもう言いません」
福田「ふむ、そうですね…」
Q館長「ぼくはこの状態を『過剰』なる表現として見ているのですが、これだけあると福田さんが次から次へと『これだ!』という作品がでてくるのも無理はありません」
福田「ははは…。わかる気がします」
Q館長「ところで、いま福田さんの現在置の「これだ!」はどの作品ですか?」
福田「それが初期の作品だという『闘鶏』なんです」
Q館長「なるほど…」
 
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福田「この作品がこの3月でしたか、東京で購入したのですが、私の財政ではとんでもない額で、それでも手に入れたのです。それで半年間は生活を切り詰めて大変なものでした」
Q館長「あっははは。すみません。笑っちゃって」
福田「いんです。ほんとのことですから」
Q館長「でも命からがら(笑)、それほどまでして『闘鶏』を手に入れたのは、福田さんにとって最後の『おれにとってはこの作品だ』になるかも知れませんね
福田「そうなんです。こんどは『人生での巡り合い』のような気がします。ちなみに當山さんに聴きたいのですが、私が『緑門系』でもなく『巌臥蒼龍』系でもなく初期の『闘鶏』なのはどうしてででしょう?」
Q館長「……」(少し沈黙)
福田さん「……」(のけぞる)
Q館長「ぼくの勝手な言い草で悪いのですが、こういうことだとおもいます。つまり、『闘鶏』の作品のなかには福田さんの『人間』や『人生』が隠されているとおもわれます。結局、人間はどんな自然や風景などによる作品を描いても描いても『人間』に戻ってくるのです」
福田さん「そうですか。あの『闘鶏』には私自身、家族、育った環境、すべてが込められているというのが當山さんの意見ということですね
Q館長「そうです。逆にいえばあの『闘鶏』には作家の、ありのままの人間が彫り込まれているということになるでしょう」
福田さん「へぇ〜。それは…」
 
 すでにだいぶ外は暗くなって…。それでもふたりは、怒濤のバトルをやめないのでありました。
 
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                                                  『闘鶏』変形/1987 裏手彩色