投稿日時:2010年07月05日(月) 10:12
「月の路」 1988
月の夜には海に出ないようにする。
武佐(ンサァ)はなるべくそうして、闇の夜に偏りをもたせて生業をたてようとしていた。
村の娘等も月満ちに連れて徐々に妙笑するし、自分も何か定まらず、船を出しても海底の魚が見えない始末。
月の夜は何れかの箍(たが)が解けるのだ。
誰とはなく観念して、何処とはなく集って、何かとはない目標を探して、落ち着きのない時間を喰うのである。
遠く想うのもその時である。
何処かで自分を待っている人が居る気がして、ただ歩くのだ。酒を下げたり、鳴物(なりもの)を弾いたりして言い訳は準備するものの、ただ歩くのである。
武佐は何度これに取り憑れたかわからん。ましてや海のただ中でそうなったらどうする。
自分が自分で居られないのが怖いのである。
月の夜は魚が釣れない。
昔からの言い伝えではあるが、理由は別にもあると武佐は聞いていた。
いまは昔、海の強者(ヤカラ)が居たと言う。
朔も望も隔てなく魚を上げていた件のヤカラが、海に出ようとすると妹に止められた。
「今夜は月の美しさに余り有り、心の騒ぎが過ぎるよ。月の路が開いたらどうしよう…」
それでも妹をなだめヤカラは舟を下した。
島から遥か離れた目当ての礁根で、面白いように魚を手繰っている内、俄に背後の気配を感じて振り向くと、煌々として望の月が光の路を海に開けていた。
「月の路…。」
固唾を呑んでヤカラは呟くと、「誰かを待っている…。」 と言い、折からの微北風(ヤファニシ)を真帆すると、ヤカラの舟は月の路に消えて行った。
そう言う話しであった。
武佐は自分の中にも遠く呼ぶその声を聞いていた。
抗う術を知らないまま、ただ月の夜には海に出ないようにした。
あの陸ではいくら迷ってもいい。その内に女が気になってその女が近くに感じると、此処があの遠くだったことを識る。
成りかけの青年の衝動は、命の古層から吹く風にあたるからではないか…。
少年ではないが青年でもない。間は魔を取り込む仕掛けを有して揺らいでいる。
麗しは生と死を同時に仕掛けて惹気を惑わす。
かつての自分がそうであったように、大人等は武佐にもこう言った。
「月の路を歩いて行ってはならない。」 海の村(シマ)の戒になったと言う。