投稿日時:2016年09月12日(月) 14:38
なにもしないことはスゴイ。
少年時代、炎夏のころ。家族で海水浴をしにビーチに行ったりしたとき、よく覚えているのが、沖縄のうだるような暑さだった。それはモクマオウのだらっとした針葉の感じや、埃まみれのイシグー(石粉)道や山の壁面に顔を見せる赤土などにますますその暑さを感じたものだった。砂浜のうえを裸足で歩きでもしたら、「アッチチ」を何度も連発しなければならない羽目になってしまう。
そんな全身を溶かすような沖縄の暑さをボクネンは「白」と「黒」で表現する。とくに「白」は圧倒的な「目眩のする暑さ」を表現するのだが、考えてみれば版画で「白」を表現するとなれば、その部分だけを彫っておけばいいということになる。つまり、そこは彩色をしないとすでに作家に頭のなかにあるのである。
ボクネン作品で常々惹きつけられるのは、その「白」の部分、すなわち「光」の表現なのであるが、そのとてつもない「炎熱」の表現部分はそうとうな工夫を凝らさなければならないということでもないのだ。つまり、版画ではそこは「彫っておくこと」(そこは白でなにもないよ!ってこと)が、結局は激烈な表現となっていることに、版画の不思議さを感じるのである。
もうちょっと言ってみれば、穴を彫っておくだけであとは「なにもしないこと」が、目眩のするような「炎熱」をつくりあげているのである。これは、不思議である。まるで中世の仏教の教え「本願他力」のようだ。一所懸命になって創作することだけが必ずしも「表現」を究めるとは限らず、なにもしない状態に向かう「表現」の方がより凄みがあるということになるのだ。
いまさらながら「版画」の底知れぬ「空状態」に驚くほかはない。(上掲作品『雨端』2000年)