眼から受けた刺激が思いを広げていく。

%e3%83%9c%e3%82%af%e3%83%8d%e3%83%b3%e8%87%aa%e4%bd%9c%e3%82%92%e8%aa%9e%e3%82%8b%e3%80%82

 

—剣岳(つるぎだけ)をモチーフに描いた『屏風山』(びょうぶやま、182.5×276㎝)の新作品が30分ほど前に完成して、いまどんなふうな気持ちですか。

ボクネン この作品は『神々の山』の展示会(2016年3月26日〜7月10日)のために、山というテーマを半強制的に与えられて彫ったんだけど、それをせざるを得ない状況に追込まれるというのも、そんなに悪いことじゃないね。そうじゃないと、ぼくはこの剣岳自体を思い出さなかった。もともと剣岳というのは実際に見たわけではないんだ。

それではなぜ、剣岳が出てきたかとと言うと、ぼくは20数年前に『日本の名山』とか『日本風土記』みたいな写真集かなんかで、剣岳の空撮が記憶に残っていたんだ。その山のかたまりのありかたが、人が寄り添っていて、いかにも並んでいるように見えた。それは山そのものが地から空にそびえ立って、湧き立つというような、そういう立ち上がりの生命感みたいなものを覚えていたんだね。

gw54b

それで、その剣岳ことを思い出して彫ったんだ。作品が仕上がって、それがどれほどの満足度かというと、こんなふうに描きたかったんだというのはあるけど、確かにこれだったのかというと、定かじゃない。

もう一度、剣岳を描けと言われても、またこんなふうに描くかもしれない。結局、絵への思いというのは、確かにこんなものであると判然と言えるものではなくて、おぼろげなものなんだ。ただ、カタチはこんなふうだよな、版画という手法でやるとこんなふうになってしまったということなんだ。

まあ、素朴な思いとして作品を仕上げるというのは、おもいしろいなあと思うね。しかし剣岳をよく知っているひとが見た瞬間、「おっ、剣岳だ」と、おもうのかどうかというのは、作家として興味ありますけどね。

極端に言えば、絵は観るひとのものだから、別に観たひとが剣岳に見えなくてもそれはそれでいいわけですよ。例えば、この絵が鯱が餌を穫ろうと跳ね上がっている瞬間だと言うひともいるかも知れない。それからあなたが言うように、ナウマン象が旗を振って行進している(笑い)というひともいてね。ぼくも、その感想を訊いてそれはそういうふうに見えるなぁ、と思うわけです(笑い)。まあ、いずれにせよ作品を観た人のいくらかが「生命の躍動」を感じてくれているということなんだよね。

gw54c

—その感想というのは観るひとにとって無限に広がっていくということですね。

ボクネン そう。ひとのおもいが出てくるということを、絵はどこかできっかけをつくってくれるんだ。鑑賞者が作品を観て眼から受けた刺激をそれぞれの思いで展開させて、どんどん破裂させて広がっていくというのは絵がもっている力なんだ。

絵の存在理由は、鑑賞者に「思い」を発令することができるということだね。「思い」のスタートを信号することができるんということなんだ。

そういう意味では、描いた当事者としては、じぶんの思いを描いたわけだけど、鑑賞者のそれぞれの思いもよらない観方があるというのは、作家としてとても新鮮な観方に遭遇するということなんだ。

—そうですか。確かにそれはおもしろいですね。今日はどうもありがとうございました。(2016年3月11日。読谷アトリエにて)

gw54e