館長インタビュー その1…

館長インタビュー その1

軸装職人を訪ねてー表紙

手に職をつけることばかり考えていた。

「ほかになんにもなかったんですよ。それと、なんにもできなかったし…」

謙遜してはにかむのは、豊見山昭さん(74歳)。額や軸装、ふすま、障子などの表具師・建具師をなりわいとして、もう50年余りにわたってこの仕事を続けている。豊見山さんが経営する工房名は「衣豊堂」(いほうどう)。工房は栄町の裏通り、風情豊かな那覇市大道の下町にひっそりと佇んでいた。

実は豊見山さん、ボクネン作品の軸装を長年にわたって一手に引き受けてくれている生粋の職人さんだ。プロジェクトコアとは、あしかけ25年のつきあい。今回のインタビューは、このもの静かな豊見山さんに登場していただいて、ボクネンを取り巻く人々のひとりとして話を聴かせてもらった。

「なにしろ、私たちの時代は手に職をつけることがなによりも大事だったんですよ。親も周囲もみんなそうおもっていました。でも、いまのひとは、パソコンなんかもありますから、いろんな職に就くことができるから、手に職をつけるなんて、そんな意識はないでしょうけどね。あっはは」

豊見山さんが、やさしい笑顔をふと浮かべたかとおもうと、ゆっくりと話を始めた。

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故郷の宮古島を出たのが、18歳。

豊見山さんは学校を卒業して弱冠18歳、故郷の宮古島をあとにして沖縄本島にひとりでやってきた。手にしっかりとした職をつけるためである。最初はすでに本島に住んでいた兄のつてで宜野湾市にあった当時の建設業に見習いで就職。しかし、大工の仕事は一日じゅう鉋(かんな)がけばかりで、汗だく。ひねもす同じことの繰り返し。からだには塩ばかりが吹いて辛い仕事だった。

豊見山さんは、「ああっ…これは、たまらん」と、その職場を2年で辞めてしまう。

それから、兄の知人の紹介で、今度はふすまなどを扱う那覇市の農連近くにあった建具屋さんに就職。そこでは、ふすま・障子・戸などの製作のほかに表具の額の製作にも経験した。そこで、やっとなんとか自分にあった仕事に巡り合い、表具師の仕事に喜びを感じるようになる。

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単身、京都に武者修行。

那覇で次第に技術を身につけていった豊見山さんは、さらなる職人としての向上を目指した。いったん、そこの務めていた表具屋さんを辞め、京都の老舗に武者修行に出かける。

修行の目処は、5年。最低この期間で確かな職人技を身に付けたかったと言う。修行の行く先は日本の伝統表具の本場、京都。工房名は「衣峰堂」(いほうどう)。そこで豊見山さんは苦労に苦労を重ねて、丸5年間勉強を続けた。その熱心な姿をみていた衣峰堂の主人は、豊見山さんの真面目さに惚れ、店に留まるように説得する。しかし豊見山さんは涙を飲んで、断る。やはり沖縄での表具師として帰郷を決心した。独立し、自分の工房をもつためであった。

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故郷沖縄で独立。

帰沖は昭和45年(1970)。豊見山さんは念願の独立を果たす。工房名は「衣豊堂」(いほうどう)。京都でお世話になった「衣峰堂」の「峰」(ほう)を豊見山の「豊」(ほう)に変えて命名した名前だ。

「お世話になった『衣峰堂』さんに敬意を込めて、感謝のつもりでつけさせてもらったんですよ。もちろん、向こうのご主人さんも喜んで承諾してくれました。それを認めてくれたとき、とでも嬉しかったですね」

職人として、ひとから信頼されてきた豊見山さんならでは話だ。

ところで、独立後はおもったほど簡単ではなかった。仕事はあるにはあるのだが、集金ができず苦労の連続。もうダメかということが幾度もあった。

「捨てる神あれば、拾う神って言いますかね。工房の苦しい時期に、わざわざ訪ねてきて仕事をもってきてくれるひとがいるんですね」

苦境に落ち入っていた時期もあったのだが、少しずつ実にいろんなひとが「壁貼り」や「展示会の大道具や小道具」などの依頼で訪ねてきてくれたと言う。こちらから営業をしてわけでもなかったと言う。

たとえば、三越の仕事で依頼されたイベントの大道具製作は、毎週、何年かにわたって続いた。これを豊見山さんは、たったひとりでこなした。もちろん眠るヒマもなかった。しかし、お陰でこの仕事でこれまでの借金をぜんぶ返すことができたのだ。

またこんな仕事もあった。復帰前だから、いろんな軍施設の仕事があったのだが、とくに将校クラブの壁貼りにはひと苦労。特殊な糊が沖縄にはなかったのである。そこで豊見山さん、麩などを調合してじぶんで糊をつくった。とにかく、そのころいろんな仕事を受けたが、豊見山さんは持ち前の真面目さで壁を越えていった。豊見山さんの仕事への対応力は、挑戦的で波瀾万丈であったのである。

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ボクネン作品との出会い。

それから数年後、豊見山さんは1990年(平成2)にリウボウで開催された第一回ボクネン展『島が一番おもしろい』と遭遇する。展示会の額や軸装の製作依頼で、ボクネンの来房を受けたのだ。

プロジェクトコアの額製作の依頼は、お手の物だったのだが、難しいのは軸装であった。なにしろボクネンの版画は180センチ×90センチの大型サイズが工房にどんどん搬入される。もちろん、このサイズの2倍の軸装もあった。これらの大きな作品を軸装するとなると、大変な難作業。裏紙を貼る裏打ちも、しっかりとした丁寧な作業が要求された。

しかし、作品裏打ち自体の作業経験が豊見山さんにはなかった。それでも豊見山さんは、試行錯誤でこの難作業をクリアーしてきたのである。

「最初はかなり苦労しましたけど、いろいろと自分なりに考えてやりました。おかげで、とても勉強になりましたよ」

豊見山さんの謙虚な顔が笑う。

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相手が喜んでくれるのが一番。

仕事がうまく仕上がれば、仕上がるほど、嬉しくなってやる気がでてくるという豊見山さん。生粋の職人気質だ。

「でも私は、引っ込み思案でね。ひとの前に出るのは苦手なんですよ」

確かにあまりおしゃべりをしない豊見山さんだが、仕事のこととなったらいつのまにか真剣な表情に。

「仕事はもうけばかり考えてはダメ。依頼されたものを引き渡したときに相手が喜んでくれて、それから報酬をもらう。それでいいんです。それが最高なんです」

なんとも素敵な職人さんの渋い顔だ。

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腰が弱くなっているけど、まだまだ続けますよ。

とにもかくにも豊見山さんは、軸装で、ボクネン作品を引き立ててきた大なる貢献者だ。ボクネン並びに美術館スタッフも感謝、感謝の気持ちでいっぱいである。

そんな豊見山さんも、もう70代の中半。

「最近は、腰も自由にならなくてね。午前中は少し休んで、痛みがひいたら作業に入るという“だましだまし”で製作でやってますよ。あっははは」

陽気に笑う豊見山さんだが、ただ現在、後継者がいないという豊見山さん。今後の軸装技術の継承が気になる状況だ。

それでも豊見山さんは、やさしく目を輝かせてこう言ってくれた。

「ボクネン作品の軸装は、これからもできる限りやらせてもらいますよ」

 職人の力強い言葉が、工房に響いた。