投稿日時:2015年06月29日(月) 14:59

おしゃべりQ館長 その22

OQ表紙

 今日は絵を観た印象を言葉にする「記事」と「評論」の違いについておしゃべりしてみようとおもう。これまではこのことが、あまりぼくも気にならなかったのだが、ここにきて少しかんがえを詰めてみようとおもう。

 まず「記事」と「評論」は、まったくもって目的自体が違うということである。「記事」の目的は新聞雑誌などで不特定多数に伝えるもので、あくまで読んでいるひとみんなが理解できなくてはいけない。ところが「評論」はというと、まさに評論家が独自の視点でその絵を分析し、新しい発見を試みるものである。もちろん、その発見された文章が誰にもわかりやすい文章であることは理想には違いないが。

 さてこのふたつの「文章」は上述のように明らかに目的が違うところから、同じまな板で論じることができないことは言わずもがなである。それでも、この「記事」と「評論」をそれぞれ読んでみると、それぞれがじぶんの範囲を乗り越えて役割を果たしていない場合がある。

 例えば「記事」にもかかわらず、記者がその絵について独自な評論性を打ち出し過ぎて、単なる「記事」を理解するのに多くの読者が混乱し意味がつかめないということになる。これでは「記事」の意味がないことになってしまう。やはり「記事」は「評論」ではないのだから、その絵について事実にもとづく基本的な情報を流すべきであろう。例えば、その絵がタイトルがなにか、いつ描かれ、作家はなにをテーマに描いていたのかという、誰でもわかることをベースに記事は書かれないといけない。

 一方「評論」は、一方的に執筆者が想像力にまかせて書けばいいというのでもなく(その執筆者がいいというのであれば、それはそれでいいのだが)、自身のなかに明確な論理の道筋をつけながら書かなないと、せっかくの読者も逃げていってしまう。ただ評論家は「記事」のように事実を伝えればこと足りるというものでは責任回避になるから、よっぽどの慎重さと論理展開でもって書くことが必要となるであろう。そういうことから「評論家」は、徹底した対象の追求力が要求されるはずである。

 しかしながら、多くの「評論家」はほとんど絵についての「正確性」を射止めるのに困難な目に遭うに違いない。それほど絵の解釈は困難なのだ。ところが、だからといって評論家が新聞記者のような「事実」による基本情報だけ羅列するという文章の押し売りになるようでは最初からやめたほうがいいだろう。それは新聞や雑誌の記者から「記事」の仕事を分捕るだけであるからである。

 ぼくもだいぶ「評論」をやってきたが、間違いに間違いの上塗りの恥の連続であった。しかし「評論」というのは間違いをなんども繰り返しながら、そのうちなにか大事なものにぶち当たるはずのものではないだろうか。そう、信じている。さて、この文章も間違いの“駄文”には違いないのだが、これを繰り返しながらじぶんの「評論」の場所の行けるところまで行こうとおもう。