投稿日時:2012年07月18日(水) 9:37

おしゃべりQ館長 File 08  

OQ表紙

最新作『人間への手紙』について

〜形のない記号〜
 昨日、7月17日夕刻。台風の南島からの風を受けて北西から勘違いしたような落ち着きのない風を背中にうけつつ、私はアトリエへの階段を登っていった。ボクネンの最新作『人間への手紙』が完成したというのだ。この21日(土)から始まる『人間への手紙シリーズ』第2通「差出人ー生きもの」展へ出品作である。
 たて186×よこ184cm。その生まれたての版画はアトリエの床ほとんどを占領して横たわっていた。おどろおどろしさと、うめき声のような「色と音」が全面の黒と青で全面に描かれている。いっしゅん思い出したのは2008年に彫られた『萌芽魂魄』(ほうがこんぱく)であった。あの作品は森の猥雑さを描いたものであった。その作品との連続性を感じるのだ。ただ『萌芽魂魄』は液体のどろどろした流れが画面に広がっていたし、柔らかい曲線で構成されていたように思う。しかし今回の『人間への手紙』は、「やわらかさ」自体がない。なにか違うのだ。その違いが新作に「表出」されたものであろう。
 さて、その「表出」はなにか。私たちは作品の先へ行かねばならない。
 思うにそれは「形のない記号」への無意識の旅出の始まりであるように思われる。「始まり」というのは『人間への手紙』には、はっきりと「クジラ」や「鳥」や「牛」や「犬」がいつもの通り「形のある記号」が描かれており、作品は「形のない記号」だけで描かれているわけではないからである。
 とすると、この最新作には三つの領域があるように思われる。「形のある記号」「形はあるが逸脱している記号」、そして「形のない記号」である。
 ここで注目したいのは「形はあるが逸脱している記号」と「形のない記号」である。この新作で前者と言えば、右上に描かれている「犬」である。この犬は犬には違いないのだが、「獰猛性」と「善悪の拒否」をむき出しにしており、その時点ですでに「犬という記号」から逸脱しているのである。つまりは、観るもの(人間)を誘い込み観るもの自身の内部に入り込んでいるのだ。その理由や構造は「観るもの」と「犬という記号」のなかにしかないため、誰であろうと内容を突き詰めることはできない。当然「観るもの」は他者より「犬という記号」に一番近い位置にあるのだが、それとて「観るもの」は精神の宇宙を彷徨っているにしか過ぎない。
 さて、もうひとつ最新作『人間への手紙』に触れたいことがある。
 画面中央の下方に描かれた白イカのような、亡霊のような、白煙が上方に向かって吹き出している「形のない記号」である。ここで私たちは「見覚えがないが、見たことがあるかも知れない」作品画面に立ち会っていることになる。この「なんにも形のないもの」は私たちにとって恐怖そのものである。それは恐怖に打ち震えなければならないのだが、私たちにとっては永久に逃げることのできない「記号」であろう。つまりは、これは究極的に言えば「死の記号」だと思われる。
 絵画は目的は決まっているだろう。つまり、すべての「記号」を無化して「無」にいきつくことである。
 しかし「形のある記号」は私たちに相も変わらず「煩悩のやすらぎ」を与えてくれる。その「煩悩」に別れを告げるのが、アートの最終到達点には違いないのだろうが、作家も鑑賞者も「煩悩のふるさと」から立ち去りがたいのだ。「形のない記号」にまだ諸手を上げて喜べないのが正直なところだ。
 ボクネンはこの作品で「煩悩」から、まだまだ離れたくないことを無意識に作品化しているのだ。
                                ボクネン美術館館長 當山 忠
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                               『人間への手紙』2012年7月17日